流鏑馬

武士が馬を馳せながら鏑矢(かぶらや)を射る弓技。「やばせうま」、「やばせめ」、転じて「やぶさめ」と称し、鏑矢を用いることから漢字の流鏑の字をあてたと解されている。武官の騎射に習い矢番の習練として武士に愛好され笠懸・犬追物とともに騎射の三ッ物と称された。『中右記』永長元年(一〇九六)にみえる白河院の流鏑馬が鳥羽の城南寺離宮において滝口武士によって張行され後世城南寺流と称されたのは著名であり、藤原明衡の『新猿楽記』には、天下第一の武者の中君の夫が歩射・騎射・笠懸とともに流鏑馬の名手であることが記され、当時の武士の間で盛んであったことを伺わせる。鎌倉時代には、幕府の行事として流鏑馬が取り入れられ、放生会(ほうじょうえ)以下の恒例・臨時に盛んに興行された。関東の流鏑馬は、もっぱら藤原秀郷の故実を継承して、佐藤・首藤・波多野・小山・結城・下河辺・近藤・武藤・佐野・足利らの氏族により秀郷流と称して重んじられた。『吾妻鏡』文治三年(一一八七)八月十五日条には、鶴岡八幡宮の放生会に諏方盛澄は、「流鏑馬之芸窮、依二|伝秀郷朝臣秘決也、爰属平家多年在京、連々交城南時流鏑馬以下射芸訖」とみえ秀郷流に城南寺流の奥義を極めて、源頼朝から評価されている。頼朝は、西行に故実を問い、弓馬に堪能な武士を集め、弓の持ち用、矢番の技術を糺し関東の流鏑馬の様式を整備して基を調えた。装束は、綾藺笠(あやいがさ)、武士の日常の姿の狩衣(かりぎぬ)・水干(すいかん)・直垂(ひたたれ)などに行騰(むかばき)・射籠手(いごて)を着け、箙(えびら)を負った狩装束を例とした。馬場は、長さ二町に的を三ヵ所に立て、馬場の走路の前後を扇形とし、埒(らち)を設けて、弓手(ゆんで)を雄埒、馬手(めて)を雌埒といい雄埒を高くする。的は、一尺八寸ほどの檜の板に長さ三尺五寸ほどの竹串に二ヵ所紙縒りで綴じ、走路から約三寸五尺ほどに立てた。室町時代になると弓馬を中心とした合戦から槍・鉄砲と戦闘様式も変化して、武術よりも神事としての奉賽のみとなり、地方に形骸化して、存するのみとなった。江戸時代故事を好んだ八代将軍徳川吉宗により、打毬・流鏑馬などの旧儀が再興され、『徳川実紀』に「流鏑馬も中古以来絶たるを興し給わんとて、諸家の記録をあまた御参考ありて、成島道筑信遍に仰せて、流鏑馬の事類聚せる書をつくらしめ給ひ」とみえ、その実施は、京保十三年(一七二八)三月十五日徳川家重の疱瘡平癒祈念として高田馬場の穴八幡で再興されたが「綾藺笠をはじめ、万の調度ども、かたの如く備はりしかど、古の式法、其まゝに伝はりたるにあらねば」と遠慮して、騎射挟物と称したと伝えている。その式は、旗本の小笠原平兵衛にあずけ、のち小笠原縫殿助も加わり、元文三年(一七三八)家治の誕生祝い、宝暦元年(一七五一)の家重の厄年などに盛んに興行されたが、幕府の瓦解とともに衰退した。現存する流派には、徳川の伝統を引く小笠原流と、熊本細川藩で伝承された武田流が著名である。(全文)

引用文献  国史大辞典 (株)吉川弘文館  平成2年9月30日

 

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木漏れ陽に静まる杜の小径へと 儀式つらなる騎馬武者の群れ


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いくたびと試錬を競ひ晴れやかな 勇姿を飾る流鏑馬の武者


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駆け抜ける狩衣武者にわき道の つらなる者は何を思はん


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流鏑馬の儀式つらなる者たちに 礼意注ぎぬ神々もまた

 

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神事に立ち会ふ者も称へなん 侍どもの冴へた矢筋を

 

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自らの勇気と技を試さんと 弓馬の道を駆ける若武者