葉隠に散りとどまれる花のみぞ 忍びし人に逢ふ心地する 西行
『山家集』(中 恋 599 寄スル二残レル花ニ一恋)
はがくれ 葉隠 近世の武士道論を代表する著作である。全十一巻。鍋島藩士山本常朝の隠棲後の談話を、田代陣基(一六七八 ー 一七四八)が、宝永七年(一七一〇)以降、聞き書きして編集したもので、享保元年(一七一六)の完成を伝える写本もある。成立過程には今日なお不明な点がある。聞書一・二は常朝の談話の聞き書きを直接まとめたものと考えられるが、以下、三は藩祖直茂、四は初代勝茂、五は光茂・綱茂に関することを中心に収録し、六は「御国古来の事」、七 ー 九は「御国之諸士褒貶」、十は「他家の噂井由緒」、十一は以上にもれたことをとりまぜて記すという整った構成になっている。聞書三以下は、常朝の精神を継承しつつ、世に存在するさまざまな「聞書」をも資料にして陣基が編集したのではないかと考えられる。なお陣基の自筆本は発見されていない。版行本はない。現在調べうる写本は十九種でその間に若干の異同増補がみられる。この書の思想は「武士道というは死ぬ事と見付けたり」に凝縮した仕方で示されている。それはまず、儒教的な士道論において武士がよるべきものとして説かれていた人倫の道の教説への批判を含む。どう振舞うことが義であり不義であるかという議論は、元来、私に執らわれ生命に執着する武士に、内面の私を糊塗し死ぬべき時にも生きのびることを正当化する理屈を用意するものであるとする。徹底的に内面の純粋さを追求する『葉隠』は、純粋さは事にあたって死への道をえらぶことによってのみ確保されるとする。死のみ誠であるともいう。この純粋さの追求は、日常においては「常住死身」になっての奉公の主張となる。死身の奉公は、時に奉公のためには名利の真只中にとび込み、出世して家老となっての奉公が大忠節であるという考え方ともなる。しかし、「死ぬ事」は喧嘩などの場において、いさぎよく踏み出して切り殺される生き方をよしとする仕方においても説かれる。『葉隠』が説いたものは、究極においては、私、特に生命への執着を否定し切った純粋さ自体であり、それは「死ぬ事」以外にはあり得ないとするものである。「死ぬ事」の背後には夢幻観がある。その夢幻観はまず、名利にとらわれた人間が見るこの世は夢幻であるということである。名利を捨て切った者にはこの世の真の有様が見える。第二には、人間の一生は夢の間のように「誠に讒」であるということである。束の間の一生であるから真実に徹して生きよというものである。その生き方が「死ぬ事」である。死身に徹する時、腕力的ではない他者を圧する閑かな強みが形成されるとする。身嗜・姿勢・動作を意味する「風体」、ものの言い方・発声を意味する「口上」、文字や文章を意味する「手跡」が閑かな強みを持つことを武士の理想とする。『葉隠』は情的結合としての主従関係を積極的に肯定して奉公を説くが、根底に流れるものは一個の武士としてのあり様の理想である。研究上の今後の課題は、内容および成立事情の両面とともに、当時鍋島藩に数多く書きとめられていた諸「聞書」との比較及び関係の解明にある。テキストには栗原荒野編『校註葉隠』、また『岩波文庫』、『日本思想体系』二六、『江戸資料叢書』所収の『葉隠』がある。(全文)
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かくすればかくなるものとしりながら やむにやまれぬ大和魂
吉田松陰 一八三〇 ー 五九
幕末の思想家、教育者、長門の人。幼名 虎之助、のち大次郎、松次郎、虎次郎に改む。名は矩方、字は義聊または子義。松陰・二十一回猛士と号す。天保元年(一八三〇)八月四日、父長州藩士杉百合之介常道(家禄二十六石)・母滝の次男として長門国萩に生まれた。五歳の時、山鹿流兵学師範として毛利家に仕えていた叔父吉田大助賢良(家禄五十七石六斗)の仮養子となり、翌年大助の死により吉田家を継ぐ。松陰は、すでに六歳にして藩の兵学師範たるべき運命を負い、幼少時から兵学と経学の取得に励んだだけでなく、時代の政治的課題と真正面から向き合い、それを身をもって生きようとした人物である。(以下略)
親思ふ心にまさる親こころ けふの音づれ何ときくらん
吉田松陰に捧ぐ
時の世の流れにさればあわずとも 血汐も伝ふ大和魂
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けふよりは幼心を打捨て 人となりにし道もふめかし
橋本左内 一八三四 ー 五九
幕末の開明派志士。名は綱紀(つなのり)、通称左内、号は景岳。天保五年(一八三四)三月十一日越前国福井城下(福井市春山二丁目)に福井藩奥外科医で二十五石五人扶持の橋本彦也長綱の長男として出生。母は坂井郡箕浦村(福井県蓑町)真宗大谷派大行寺住職小林静境の女梅尾。幼時より俊秀、藩儒吉田東篁に従学中の十五歳当時、「稚心ヲ去レ」「立志」など五徳目を揚げた「啓発録」を著す。十六歳で大阪遊学、諸方洪庵の適々斎塾において蘭学・蘭方医学を修めた。(以下略)
・稚心を去る
・気を振う
・志を立てる
・学に勉める
・交友を択ぶ
橋本左内に捧ぐ
武士の魂此処に留まらん 我が身で刻み標すこの碑に
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もののふの矢並つくろふ籠手の上に 霰たばしる那須の篠原 源実朝
那須与一 生没年不詳
鎌倉時代前期の武士。与一は通称で、下野国の豪族那須資隆(資高)の十一番目の子とされ、余一とも書く。(中略)小兵ながら弓矢をよくしたと伝えられ、文治元年(一一八五)二月、源義経に従って屋島の戦に加わった与一が、平家方の小舟に立てた扇の的を一矢でみごとに射落として敵味方の称賛を博した話は、『平家物語』や『源平盛衰記』に名場面として描かれていて著名である。(以下略)
那須与一に捧ぐ
汐風に矢羽を定め荒波の しぶきを分ける那須の若武者
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吹く風を勿来の関と思へども 道もせに散る山桜かな
源義家 一〇三九 - 一一〇六
平安時代後期の武将。長暦三年(一〇三九)に生まれる。頼義の長子。母は平直方の女。幼名源太。石清水八幡宮で元服したため八幡太郎と称す。義家が出自をもつ清和源氏は、身分的には中級貴族に属するが、当時貴族出身者のなかで武的要素を強くもつ人々があり、彼らは中央官職の「武官」に任ぜられ、中央政府を支える武力となった。(以下略)
源義家に捧ぐ
よこたわるつわものどもの背をよぎり ゆくへもつげぬ風の音かな
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浄土にも剛のものとや沙汰すらん 西にむかいてうしろみせねば
熊谷直実(法力房蓮生) 一一四一 ― 一二〇八
鎌倉時代前期の武士、御家人。永治元年(一一四一)直貞の次男に生まれる。(中略)元暦元年(一一八四)宇治川の戦では、源範頼の軍に属して先陣となり、同年一谷の戦では、子息の小次郎とともに榒手の源義経に従って、平山季重と先陣の功を争い、そのとき平敦盛を打ち捕つたのが、のちに出家する機縁になったという。(中略)健久三年(一一九二)熊谷・久下両郷の境界論争について、久下直光と頼朝の前で対決したが、十二分に弁明できず、かえって頼朝の不信を招いて、不利な採決が下ると、証拠の調度や文書を簾中に投げ込み、幕府の西侍で髻を切り、私第にも帰らず、行方知れずとなった。その年のうちに伊豆の走湯山を通って上洛する途中、走湯山の天台僧専光房良暹に会い、出家を思いとどまるよう説得されたが、やがて上洛して法然房源空に帰依し、法力房連生と号した。(以下略)
熊谷直実に捧ぐ
先駆けの誉れも今や夢ならん 月にむかいて時を偲べば
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時ならぬ岸の小笹の鶯は 浅瀬たずねて鳴き渡るらん
畠山重忠 一一六四 ― 一二〇五
平安・鎌倉時代初期の武士。武蔵国男衾軍畠山荘(埼玉県大里郡川本町畠山)を本拠とする畠山庄司重能の嫡子。母は三浦大介義明の子。畠山庄司次郎と称す。治承四年(一一八〇)八月、源頼朝が挙兵した際、父重能が大番役で在京中であったため、弱冠十七歳でその追討に出陣。頼朝軍との合流を果たせず、本拠地に引き返す途中の三浦一族の軍と遭遇して鎌倉由比ヶ浜で激戦を交えた。この合戦には勝敗がつかず、重忠はいったん退き、あらためて川越太郎重頼らとともに三浦一族を相模国衣笠城に攻めて、これを陥れ、三浦義明を自害させた。しかし、同年十月、房総を平定した頼朝が武蔵に入ると、これに服属し、相模入国に際しては先陣をつとめた。その後、木曽義仲の追討、平家の追討に従軍し、宇治川の合戦や一谷の戦で活躍。文治元年(一一八五)川越重頼が源義経に縁座して誅せられたことによって、彼の帯していた武蔵国留守所惣検校職を継承したものと思われる。同三年、重忠が地頭職を与えられていた伊勢国沼田御厨で重忠の遺した代官が乱妨をはたらいたことを訴えられたため、囚人として従兄弟の千葉胤正に預けられ、所領四ヵ所を没収されたが、胤正のとりなしで放免された。同五年、奥州藤原氏征伐の際、大手の先陣をつとめ、阿津賀志山の戦で、藤原国衡の首級を獲るなどの活躍をみせ、恩賞として陸奥国葛岡郡地頭職を与えられている。翌建久元年(一一九〇)、頼朝上洛の際、先陣をつとめ、院参にも随従した。同六年、再び頼朝が上洛した時も先陣に候している。重忠ははじめ武蔵国の御家人足立遠元の女を娶り、小次郎重秀を儲けたが、のちに北条時政の女とも婚し、六郎重保が生まれた。元久二年(一二〇五)この重保と北条時政の後妻牧の方の女婿である平賀朝雅との対立を背景に、武蔵国への進出を企図する北条氏の策略によって、武蔵国二俣川でわずか百数十騎をもって幕府の大軍と激戦ののち、愛甲季隆の射た矢にあたって討ちとられた。四十二歳。重忠は剛勇、廉直の鎌倉武士の典型として美談・佳話が『吾妻鑑』にも数多く伝えられており、また、文治二年四月、静御前が鶴岡八幡宮の廻廊で舞をみせた際に銅拍子をうつなど、歌舞音局の才にもめぐまれていたことが知られ、さらに建久三年九月、鎌倉永福寺庭池の大石を一人で持ち運んで据え付けるなど、大力であったといわれる。(以下略)
畠山重忠に捧ぐ
安らかな郷の川音のせせらぎに 久しき過苦も忘れせしめん
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吉野山嶺の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき 静御前
源義経 一一五九 - 八九
鎌倉時代前期の武将。平治元年(一一五九)に生まれる。幼名牛若丸。のちに九朗判官と称される。父は義朝。母は九条院雑仕常盤。源頼朝の異母弟。平治の乱に父義朝も敗死し、生後間もない義経は母や兄今若(全成)・乙若(義円)らとともに捕らわれたが、将来の出家を条件として一命を助けられ、洛北鞍馬寺にあずけられた。しかし成長するに及び、当寺を脱出してみずから元服、源九朗義経と称し、奥州平泉の藤原秀衡の庇護を受けた。治承四年(一一八〇)八月、兄頼朝が伊豆に挙兵したとき、その軍門に参加するため平泉を離れ、十月黄瀬川の陣において兄とはじめて対面した。寿永二年(一一八三)末、兄源範頼とともに頼朝の代官として京都に向けて出陣、元暦元年(一一八四)正月、京中に狼藉をくり返していた源義仲を討ち、頼朝配下の武将として、はじめて入洛を果たした。ついで後白河上皇の院宣をうけて、当時摂津一谷に布陣し入京の期をうかがっていた平氏の追討のために出京、いわゆる鵯越(ひよどりごえ)の奇襲戦法により、平氏軍に壊滅的打撃を与えて、これを海上に追い、大きな勲功を挙げた。一谷合戦後、頼朝の命により平氏軍を追走することなく帰洛、そのまま洛中の治安警備の任にあたり、上皇および京都貴族の信頼を得た。しかし上皇による頼朝・義経の離間策にのせられ、義経は頼朝の許可なく検非違使・左衛門少尉に任官したため、頼朝の警戒するところとなり、平氏追討の任を解かれた。文治元年(一一八五)正月、再び平氏追討に起用されると、二月阿波国に渡海し、讃岐国屋島に陣を構えていた平氏軍を背後から奇襲してこれを西走させ、さらに追撃して、三月には長門国壇ノ浦で平氏一族を潰滅させた。現地において戦後処理にあたったのち帰洛したが、この出陣の間に梶原景時以下の関東御家人と対立し、景時の讒訴もあって、赫々たる戦功にもかかわらず頼朝から一層の不信を受けるに至った。この際使者を立てて異心なきことを頼朝に陳じたが許されず、五月、生虜の平宗盛父子を伴って鎌倉に下向したものの、鎌倉入部を拒否され、相模国腰越に滞在して、頼朝に陳訴するため、大江広元にとりなしを依頼する「腰越状」を送ったりしたが、ついに許されず再び囚人宗盛らを伴い帰洛した。八月末伊予守に任官したが、頼朝派遣の刺客土佐坊昌俊の襲撃をうけ、また鎌倉側の挑発が激化したため、ついに頼朝に抵抗する意思を明確化し、以前より頼朝と対立していた叔父行家と結んで、ひそかに上皇の御所に参向、頼朝追討の院宣の発給を要求した。このため上皇は十月十八日に至り院宣を与えることとなる。鎌倉側では義経謀叛にそなえて軍兵の準備を進めていたが、この追討の院宣を知るや、直ちに第一陣を京都に向けて発向させた。その情報を得た京都及び幾内は混乱状態となり、そのためか義経のもとには意外に軍兵が集まらず、彼は一旦西海に赴いて軍勢を再興せんと決意、上皇に要請して、義経は九国地頭職に、行家は四国地頭職に補任されたのち、十一月六日大物浜から乗船したものの、暴風雨のため難破し、わずかな手兵も四散してしまった。その後、幾内各地を転々と逃亡したが、鎌倉幕府側の探索が厳しく、危険を感じた義経は、数名の従者とともに再び奥州に逃れて藤原秀衡を頼った。この間鎌倉方では、義経の名が九条兼実の嗣子良経と同訓であることを憚り、義行と改名、さらに義顕と改めている。文治三年に入って義経の所在が判明し、頼朝は再三藤原氏に対して義経の引渡しを要求した。同年十月秀衡が死去すると、その嫡子泰衡は鎌倉側の強圧に屈し、文治五年閏四月三十日義経を衣川の館(岩手県西磐井郡平泉町)に襲撃、義経は妻子とともに三十一歳の生涯を終えた。現在、館跡には天和三年(一六八三)に伊達網村の建立した祠堂が建つ。また、神奈川県藤沢市藤沢二丁目の白旗神社は、義経の首級を埋めた地と伝えられ、義経を祭神とする。そののち義経の数奇な運命と悲劇的な最期のため、彼を英雄視する伝説や物語が多く生み出されたが、なかでも『義経記』は最も著名な物語として、現在に至るまで多くの人々に訴え続けるものがあり、いわゆる「判官びいき」の心情を育ててきた。(全文)
源義経に捧ぐ
嵯峨野山粉雪降りしく京の地に 残りしひとの舞ぞかなしき
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しづやしづ賤のをだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな 静御前
静御前 生没年不詳
源義経の妾。白拍子。磯の禅師の娘。平安時代末期の京都で舞の名手として知られたと伝えられる。文治元年(一一八五)十一月、義経が兄頼朝に背いて京都より逃亡した時に随行したが、吉野山中で義経主従と離れて京都へ戻る途中蔵王堂で捕えられ、京都で北条時政の尋問を受けた後、翌二年頼朝のいる鎌倉へ送られて重ねて義経の行方について尋問された。同年四月、頼朝夫妻の求めにより、鶴岡八幡宮で舞を舞って人々を感嘆させた。その時に「吉野山峯の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」、「しづやしづ賤のをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな」と歌った。頼朝はこの歌を不快に感じたが、妻の北条政子が彼ら夫婦の過去の身の上に言及してこれを宥めたと伝えられる。同年閏七月に鎌倉で男子を出産したが、この子は義経の男子である故に、その日のうちに殺された。同年九月に京都に帰った。その後の生活については不明である。『義経記』には二十歳の時に往生を遂げたと記されるが、信用する根拠はない。後世とくに『義経記』や能『吉野静』、「二人静」及び浄瑠璃『義経千本桜』四段目などによって人々に広く知られ、親しまれた。(全文)
左様ならを言えずに分かつかなしみに あたり静まる武士の詩
『葉隠』 完
引用文献 国史大辞典 (株)吉川弘文館 平成2年9月30日